先日長崎にある遠藤周作文学館に行ってきて大変感無量だったのでその延長で。
遠藤周作は中学生の頃に夏休みの感想文宿題で「沈黙」を読んで私の読書観を一気に変えてしまい、以降ずっと好きな作家。氏の小説から関連して出会い、心に刻まれた作品も数知れず、な自分に多大な影響のある作家です。
※スコセッシが映画化した沈黙ももちろん観に行った。内容も役者さん達も物凄く素晴らしかったけど原作がそもそも辛いので映画も辛すぎて無事に落ち込みました。
以前ブログでティナの「愛する」はエーリッヒ・フロムの「愛するということ」で解像度が上がったと書いたことがあるのですが、この源流は遠藤周作が書く愛と弱さの影響が大きいです。人の弱さに対して心に差し込むような愛を描き、そこに人の美しさや、人生には希望や救いがあり、意味があると僅かながらも思わせてくれるような描写。(もちろん、遠藤作品にはそんな救いのない作品もありますが…沈黙と同じくらい有名な海と毒薬なんかはひたすら重いですしね…)
私は無宗教な人間ですが、ティナにキリスト教的な愛(無償の愛・隣人愛あたり)を感じて尊くなっているのは遠藤周作がキリスト教徒だったが故に悩み、見い出し、書き続けてきた自分なりの寄り添う神の愛が好きだからなんだろうな〜と思う。そしてこの「ただただ寄り添って能動的に”愛する”」という事がいかに難しく、強さを必要とするかを考える度にこの域に近いところまで達した(と私が勝手に思っている)ティナに美しさを感じてしまう拗れたティナ推しです。
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